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共生山 法仙庵 月影寺(げつえいじ)

連載法話

  

こころは同じ花のうてなぞ ー法然上人の御歌

 露の身は ここかしこにて 消えぬとも こころは同じ 花のうてなぞ

 法然上人が今からちょうど八百年前に詠まれた歌です。当時は、法然上人の説かれた念仏の教えが大いに広まったため、比叡山、興福寺など旧仏教側が朝廷に働きかけ、浄土宗の弾圧を画策していた時代でした。
 悲劇の始まりは、建永元年(1206)京都東山の鹿ヶ谷の草庵で、安楽房、住蓮房の修した別時念仏・六時礼讃の法要に参加した後鳥羽上皇の女官松虫、鈴虫の2人が出家したことが直接のきっかけでした。

「別時念仏」とは、日常の念仏に対し、特別に時と場所を定めて行う念仏のことです。また、「六時礼讃」とは、一日を六つの時に分けて、浄土宗の高祖、唐の善導大師撰『往生礼讃偈』に節をつけて称え、礼拝される行です。このうち、「日中礼讃」のなかの「三尊礼」は阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を讃歎した部分で、日常勤行、年回法要などでも読まれてます。

 住蓮、安楽の二人は、声明に優れており、その声は哀歓悲喜の音曲をなして人々の心に響いたそうです。しかし、熊野へ臨幸していた留守中に女官が出家したことに後鳥羽上皇は激怒し、法然上人門下への弾圧が決定的となりました。建永2年(一二〇七)、法然上人と7人の弟子が流罪、弟子の住蓮、安楽など4人が斬罪になりました。これを建永の法難といいます。 

 法然上人は四国の土佐(高知県)へ流されることになりましたが、上人に深く帰依していた九条兼実(くじょうかねざね)公の配慮で讃岐(香川県)にとどめられたと伝えられています。兼実公は上人との別れを悲しみ、法然上人に手紙を送りました。

ふりすてて ゆくはわかれの はしなれど ふみわたすべきことを しそとおもふ

 この歌の意は、以下のように訳されています。
「私を見捨てて長い旅にお出ましになることは、あるいは今生の別れとなる始めでもあろうが、なんとかして便りだけはいたしたいと思うと、ともに勅免を仰いで、お帰りの橋を踏まれるようにと心をくだくことであります。」 (早田哲雄師意訳)

 これに対する法然上人の御返事が冒頭の「露の身は…」の歌です。
「私たちの命は、露のようにはかなく、いつ尽きるとも限りませんが、念仏を称える者は必ず極楽浄土に往生し、蓮華の座(台=うてな)で再び会うことができるのです。」と、浄土での再会をお約束されました。

 この別れの後、ひと月も経たないうちに五十四歳で兼実公は亡くなりました。しかし、浄土三部経の一つ『阿弥陀経』で説かれた「?会一処」(くえいっしょ)の教えが、法然上人と、離れ離れになった弟子や帰依した人々を結んでいます。
誰しも家族や親しい人との別れは、言葉に尽くせないほどの悲しみですが、お念仏の生涯をおくれば、お浄土で再び会えることを法然上人は何度も説かれています。南無阿弥陀仏