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共生山 法仙庵 月影寺(げつえいじ)

連載法話

  

東京に届いていた法然上人のお手紙

 私は武蔵野の自然がまだ多く残る、東京の西郊・小金井の小庵に住職しております。残念ながら法然上人は東国には足跡を残されていませんが、お弟子さんたちを通じて確かにお念仏の教えを関東にも説かれています。

 小金井市から国分寺市を挟んで西側に国立市があります。その南部の谷保というところに、湯島天神、亀戸天神と並び、関東三天神の一つといわれる谷保天満宮がございます。この地域は、古代から武蔵国の中心であった府中や武蔵国分寺ともほど近く、谷保天満宮も東日本では、最も古い天満宮として長い歴史を誇っております。

 融通の利かない人を「野暮天」と申しますが、その由来は、この「谷保天神さん」からくるそうです。諸説あるようですが、安永五年(一七七七)神無月(十月)に目白で出開帳をしたことを、狂歌師の蜀山人が「神ならば出雲の国へ行くべきに 目白で開帳谷保の天神」と詠んだそうで、これによりこの言い方が流行したといわれております。
 天満宮は甲州街道に面しておりますが、街道を隔ててその北側に、かつて天満宮の別当寺であった安楽寺の塔頭寺院・滝之院が小さな持仏堂と地域の方々の墓地として辛うじて残っております。そこには、今でも「血文弥陀如来 法然上人作」という石碑があります。

 この谷保天満宮を創建したのは、菅原道真公の三男道武公という方ですが、そのお血筋で道真公から六世の子孫であるのが、津戸三郎為守という関東武者です。
 この為守が現在の地に天満宮を遷し、別当寺を整えました。そして、将軍頼朝に従って上洛の折り法然上人に帰依いたしました。熱心に法然上人の元へ通い教えを受け、この地に帰って称名念仏を修していたそうです。

 谷保に帰ってからは、何度も質問をしたためた手紙を法然上人に送っています。その都度、法然上人は丁寧に教えを説かれており、為守へのお返事が九通残っております。そのお言葉のなかに「念仏申させたまわんには心を常にかけて、口に忘れず称うるがめでたきことにてそうろうなり」とあります。

 心を常にかけ、口に念仏を称えるとは、阿弥陀さまが本願に誓われたお念仏によって、常に救いの光明に照らしていただくということです。阿弥陀さまのお名前「阿弥陀」とはインドの言葉をそのまま音写したもので、その意味は「無量壽」(量り知れない命)、「無量光」(量り知れない光=救い)というものです。南無阿弥陀仏と称えることで阿弥陀さまの光明に照らされ、私たちは命あるうちは煩いなく安穏に過ごし、臨終には間違いなくお浄土へ導いていただけます。

 例えば、私たちの心は何かを見たり聞いたりするたびに移り散ってしまいますが、お念仏を常に称える心がけがあれば、阿弥陀さまのお救いから離れることがありません。法然上人は日々お念仏を称える生活を送るよう、常に諭されています。
 津戸為守は手紙のほかにも、法然上人から御本尊、袈裟、数珠を送ってもらうなどの有難く細かい配慮を以って導かれ、熱心にお念仏の信仰を深めてゆきました。

 法然上人が開眼して送られた阿弥陀さまとして伝えられているのが「血文弥陀如来」です。かつては別当寺である安楽寺の御本尊として為守によって安置されていましたが、現在は、谷保天満宮の宝物館で拝むことができます。端正なお顔立ちの坐像です。為守のしたためた血文を胎内に納めたので「血文弥陀如来」というそうです。 
 為守がお念仏を修していたのは、法然上人が教えを説かれている京の都とは遠く離れた関東の地です。ここではお念仏の確かな教えを説く方はいません。為守はそれでも堂宇を設け、不断念仏を修しています。遠い地でお念仏を称え、縁ある者に往生浄土の教えを弘める弟子に対して、法然上人はとても温かいお言葉を掛けて励まし、布教の心得を授けています。為守は法然上人からのお返事を、錦の袋に入れて肌身離さず持っていたそうです。

 為守の残したお手紙により、法然上人の温かいお心遣いが、当時の武蔵国、現在の東京に住む私たちにも注がれています。あたかも、法然上人から遠い時と場所を隔てて、直接お手紙を授っているようです。ありがたくそのお言葉をお読みいたします。
「お念仏の行は、歩いていても坐っていても横になっていても、いつでも、どこでも、どんな状況でも、そんなことには関わらないことですから、たとえ見かけや口・身体が汚れていようとも、心を清らかにし、いつも忘れずにお念仏を称えることが、くれぐれも肝心なのです」 
 楽しい日も辛い日も、毎日お念仏を申してください。南無阿弥陀仏