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共生山 極楽院 月影寺(げつえいじ)

連載法話

  

阿弥陀さまへの三身礼

 日常勤行式の中で「総仏偈」の前に称える「三身礼」についてお話しいたします。関西ではお念仏3度ずつを3回節をつけて称える「三唱礼」を用いることが多いのですが、関東では3度にそれぞれの意味を表す「三身礼」をお称えします。

 「三身礼」には、「南無西方極楽世界」と「阿弥陀仏」の中に阿弥陀さまの3つの御姿が表されています。阿弥陀さまの三つの徳を感じるとともに、その一つ一つに感謝してお称えします。これは、私たちが阿弥陀さまに帰依する意味と順序がよくわかるものですから、毎日のお勤めの時にも、この意味をかみしめてお称えしたいものです。

三度繰り返される「西方極楽世界」とは、まさに阿弥陀さまのお浄土であります。
「西方極楽世界」とは、現に阿弥陀さまがいらっしゃるところ。はるか西方にあり、お念仏を称えるものは、必ず私たちを救いとり、迎え入れてくださるというお浄土のことです。
現代では、お浄土を信じられない方も多いようです。しかし、お念仏を称えることから阿弥陀さまの有り難さも、お浄土のあり方も信心のなかに備わってきます。

初めは本願成就身の阿弥陀さまです。
 これは、すべての人々をお救いくださる本願を成就して仏となられた阿弥陀さまに帰依するという意味です。誰しもお念仏を称えれば、極楽へ往生できる。これは、阿弥陀さまのおたてになった本願のお力です。四十八願の中でも、一心に阿弥陀さまの名を称えるものは誰もが阿弥陀さまの極楽浄土へ救いとるという第十八願によって誰しもが仏さまの救いの手からもれることなく、救っていただけるのです。

 それまでの宗派の救いからは外れていた、女性や罪びとや身分の低い者なども、すべて救いとろうというのが、阿弥陀さまの本願です。
 浄土宗のお念仏は「選択本願の念仏」と申します。これは、阿弥陀さまがすべての人々を救うために多くの修行の中から念仏を選びとり、本願とされて私たちにお念仏を専らに称えるように説かれているからです。また、私たちも縁あってお念仏の教えに出会いました。多くの宗教があるなかで、仏教に出会い、そして法然上人の開かれた浄土宗のお念仏に出会いました。

 法然さまが私たち弟子に残したご遺訓「一枚起請文」のなかに、「智者のふるまいをせずして ただ一向に念仏すべし」という言葉があります。
 身の程以上に自分を見せようとか、人を差し置いてでも自分が評価されたいという、そういった文化が跋扈する現代ではありますが、そんなものは捨て去る。そんなものにはお釈迦さまの説かれた仏教、私たちの進むべき仏道、極楽往生には全く関係ない。かといって、「一文不知の身になして」と言う意を曲解して、学んだ知識を忘れなさい、とか学問をすると妨げになるとか、馬鹿になれというのではありません。

 それら我々が日々競争ばかりに奔走している世間のものさしなどは全く意味がない。阿弥陀さまの本願を信じ、念仏を称えることこそが仏の道にかなったものであります。
 「始めにはわが身のほどを信じ、後には弥陀の本願を信ずるなり」
 愚かで罪をつくってばかりいる自分を見つめる。しかし、そのような自分でも阿弥陀さまの本願によって救われる身であると思ってお念仏をお称えします。疑うこともなく、一向に信じてお念仏をお称えする。ありがたさがわかるとお念仏を称えることも楽しくなってまいります。自然と称えるようになってきます。

 しかし、お念仏を称え、自分は救われたのだからもうありがたいだけで称えないようになってはダメです。法然さまには「称えなければ、信ぜずと同じ」との御言葉もあります。このことは肝に命じて、日々のお念仏を欠かさないようにしなければなりません。

そして、光明摂取身の阿弥陀さまです。
 私たちが念仏を称えると、阿弥陀さまに光明に照らされ、救いとっていただけます。これは二河白道の喩えのとおり、間違った道に陥ることのないよう、正しい信仰の道に導いていただけるということです。

 この世に命を受けて、寿命を終え、極楽浄土に往生するまで、ずっと阿弥陀さまの慈悲の光明で摂取(救い)されることです。阿弥陀さまとはインドの言葉の音をそのまま伝えた名前です。翻訳すれば、無量寿(量り知れない命)、無量光(量り知れない光)という名の仏さまです。
『無量寿経』には、かの仏の光明は、十方世界をお照らしになっていて何ものもさえぎらない故に阿弥陀と名づくとあります。阿弥陀さまは、自分が仏になったならば、十方世界を照らして念仏するものをことごとく救いとろうという光明無量の大願を成就されたとあります。阿弥陀さまの名を称える=念仏を称えるものは必ずその光明に照らされる、その光に遭うことができる。

 阿弥陀さまの光りに遭うとは、どういうことでしょうか。
 それは、お念仏を称えていれば、必ず阿弥陀さまを実際に感じることができます。また、そのありがたさがわかってきます。お念仏を称えていると、お念仏は阿弥陀さまへの一方通行ではなく、阿弥陀さまは称える私をわかって下さることが実感できる。
 法然上人が、阿弥陀さまの化身と讃えられた浄土宗の高祖、唐の善導大師は、阿弥陀さまは、念仏を称える者を必ず聞いてくださる。お姿を見たいと願えば、目の前に現れてくださると説かれています。

 法然さまが浄土宗を開かれた後、当時の代表的な学僧たちに招かれて問答をされたことがあります。源平合戦、平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの次の年のことですが、京都の北東・大原の勝林院で行われたので大原問答と申します。
 大原といえば三千院が有名です。隣接する勝林院は天台声明の聖地で、浄土宗の声明も天台声明を基としているので、たいへん有り難い霊地であります。
 この問答で法然さまが教えを説いたとき、御本尊の手から光明が放たれたと伝えています。そのため、勝林院のご本尊を「証拠阿弥陀如来」、本堂を「証拠堂」と伝えています。 
 俗に母の愛は仏の慈悲なりと申します。赤ちゃんがすべてを信じきって母親を呼ぶのと同様、私たち念仏を称える者は阿弥陀さまとともにあることが実感できる。

『無量寿経』では、阿弥陀さまの光明を十二の働きから、十二の名前を述べています。なかでも、光明に遇うと三垢が消滅するとあります。
 三垢とは、懺悔偈でお読みします「皆由無始貪瞋癡」の「貪瞋癡」のことです。
 貪りの心は「清浄光」に照らされ、その罪が滅して持戒清浄な人と同じようにしていただける。瞋りの心は「歓喜光」に照らされ、その罪が滅して耐え忍ぶ人と同じようにじようにしていただける。愚痴の心は「智慧光」に照らされ、智慧ある者と同じようにしていただけるとあります。
 お念仏を続けることによって、自然と仏さまの教えにかなった生活に導いていただけます。

最後に来迎引接身の阿弥陀さまです。
 極楽往生を願って念仏を称えると、阿弥陀さまの本願によってお迎えをいただけます。これは、四十八願のなかの第十九願によってお約束されています。一心にお念仏を称えるものには、臨終の際には阿弥陀さまを中心に観音菩薩さま、勢至菩薩さまをはじめとする二十五の菩薩さまがお迎えにきてくださいます。東京では、九品仏浄心寺で3年に1度行われる「二十五菩薩来迎会」お面かぶりは、この姿を表現したものです。俗にお迎えが来ると申します。

 法然さまは、「ただ一向に念仏だに申せば、仏の来迎は法爾の道理にて疑いなし」とおっしゃってます。
 しかし、現在の東京では病院で臨終を迎える場合が多く、どうしても臨終の場に大切な宗教観というものが生かされていないようです。それが当り前のようになってしまいましたが、これは、それほど長い間行われているわけではありません。

 戦時中、私の曽祖父が亡くなった時には、自宅で皆がお念仏を称えるなかで臨終を迎えたそうです。岐阜という田舎だったこともあったのでしょう。近隣に住む親戚一同が集まり、疎開で身を寄せていた私の父なども一生懸命お念仏を称えたと聞いております。
 病気の間はお医者さんに、亡くなった後はお寺さんに、などというようになったことは、お念仏の信仰からはたいへん嘆かわしいことです。一度失われた社会的な慣習を取り戻すことはなかなか難しいことですが、最近は見直す方向で、病院もお役所の方も動き始めているようです。
 浄土宗の信仰が篤い地域である、愛知県の岡崎で祖父が住職をしていた頃、檀家の方がいよいよもう命が尽きそうだと言う時には、家族が夜中でも山門を叩いて呼びに来たそうです。それだけ、お念仏のありがたさ、臨終の大切さ、阿弥陀さまの御来迎を信じていたわけです。

 念仏を称えるものには臨終の時に、必ず阿弥陀さまをはじめ、菩薩たちが迎えに来てくださる。阿弥陀さまの光明に照らされているので妄念もおこることなく、念仏をとなえ、往生の本懐を遂げることができます。
「仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終を疑う心、あるべからず」と法然さまは説かれています。本願を信じ、光明に遭い、最後は来迎をいただき極楽へ往生させていただく。今日お話しした「三身礼」には、念仏者の正しい姿が明らかに見えてまいります。

「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」
どうか、みなさま、阿弥陀さまの救いを受けとめる心で毎日をお過ごしいただくよう、日々お念仏をお称えください。南無阿弥陀仏

 

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